■日時:2011年7月3日(日)13:00~17:30

■場所:甲南大学(岡本キャンパス)3号館7階 第1会議室

※交通アクセスについては、下記のサイトをご参照ください。
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■プログラム

13:00~13:10 代表挨拶・事務連絡

13:10~14:20 第一報告 信澤淳氏

「イギリス陸軍と現地人兵士の妻子-ケープ騎馬ライフル連隊の事例を手かがりに-」

(司会:高田実氏)

(報告13:10~13:50/質疑応答13:50~14:20)

14:20~15:30 第二報告 浮岳(峯岸)靖子氏

「19世紀半ばにおける産科麻酔をめぐるエディンバラ・ロンドンの対立:「イギリス人女性のもつ勇敢なる自己コントロール」」

(司会:香川せつ子氏)

(報告14:20~15:00/質疑応答15:00~15:30)

 ~休憩(15:30~15:50)~

15:50~17:00 第三報告 堀内真由美氏

「白人クリオール女性史の可能性―英領西インド諸島植民地とジーン・リース」

(司会:井野瀬久美惠氏)

(報告15:50~16:30/質疑応答16:30~17:00)

17:00~17:30 質疑応答(予備)・全体討論

(総合司会:井野瀬久美惠氏)

 ~懇親会~

 

■報告要旨

◆第1報告:信澤淳氏「イギリス陸軍と現地人兵士の妻子-ケープ騎馬ライフル連隊の事例を手かがりに-」

  19世紀前半のイギリス陸軍の連隊は、ブリテン島に限らず、カナダ・西インド諸島・ケープ植民地・インドなど、イギリスの統治下に置かれていた様々な地域に駐屯していた。その連隊の駐屯地では、将兵と共にその妻子も生活していた。イギリス陸軍の規定では、駐屯地で生活する兵士の妻子のうち、食糧の配給の対象となるのは、兵士100人に対して6人の割合であると定められていた。しかし、ケープ植民地のケープ騎馬ライフル連隊(the Hottentot Corps, of Cape Mounted Riffles)では、1806年の連隊設立以来、将兵の妻子全員が食糧の配給の対象とされていた。それは、この連隊の兵士となっていたコイコイ人(史料上は「ホッテントット」)たちが、白人の入植によって土地を逐われ、家族ぐるみで駐屯地に移り住み兵士となったためである。これに対して、1838年に陸軍省(War Office)は、このケープ植民地での慣例を廃止し、食糧配給の比率を他の連隊と同率とすることを試みた。しかし、植民地側は、それが妻子思いのコイコイ人の兵士たちの反乱を招くとして強く反発した。そのため、陸軍省は配給削減を断念することを余儀なくされる。そして、その経緯について説明しているものがキューの国立文書館(National Archieves, Kew)が所蔵する陸軍省文書(WO/43/699/153-165.)である。

 本報告では、陸軍省とケープ騎馬ライフル連隊のそれぞれの側でコイコイ人の兵士とその妻子に対してどのような認識を抱いていたのかを、この文書を手掛かりにして明らかにする。それは、イギリスの陸軍省という官庁やケープ植民地の連隊のイギリス人の高級将校たちが、この当時、現地人に限らず、妻あるいは家族というものに対して抱いていたイメージが、この問題を解決するためにどのように作用したのかを明らかにすることでもある。また、インドやカナダなどに駐屯していた連隊の兵士の妻子の処遇や兵士の遺族の扶養をめぐる議会文書及び陸軍省文書で示されている認識と関連づけることで、その認識の持つ意味を明らかにすることも試みる。

 本報告は、政治史・陸軍史・女性史・帝国史の何れの先行研究においても考察の対象とはされてこなかった事例を紹介するに留まらず、それらの領域の垣根を越えた研究の糸口となることを目指す試みとしたい。

◆第2報告:浮岳(峯岸)靖子氏「19世紀半ばにおける産科麻酔をめぐるエディンバラ・ロンドンの対立:「イギリス人女性のもつ勇敢なる自己コントロール」」

 1847年、エディンバラの産科医ジェームズ・ヤング・シンプソンはクロロフォルムを使用した無痛分娩に初めて成功した。このニュースは瞬く間に広まり、多くの人々がその使用に関心を持った。その中には1853年、1858年に出産に際してクロロフォルムを使用したヴィクトリア女王も含まれており、また、チャールズ・ディケンズ、チャールズ・ダーウィンといった著名人も産科麻酔に興味を持ち、実際に使用した。

 しかしながら、一般の人々が出産時の麻酔使用を “blessing”,  “boon”として歓迎した一方で医者の中では賛否両論あり反応が分かれた。特にエディンバラ、ロンドン間の差は歴然としていた。シンプソンの出身地であるエディンバラではクロロフォルムの使用が非常に高まったが、ロンドンではその使用には批判的な見方が強かった。シンプソンは、親交のあったロンドンの産科医フランシス・ヘンリー・ラムズボトムに宛てた書簡においてロンドンでは約8割の出産において麻酔が使われておらず、古い偏見によって母親が苦痛を強いられていることへの苛立ちを表し、ロンドンの医師の態度を批判した。このエディンバラ・ロンドン間の産科麻酔をめぐっての対立は少なくとも10年間続いた。

 産科麻酔の使用の研究においては長い間、麻酔の歴史を医学の発展の栄光として扱い、賞賛の対象とするものが多かった。しかし、より詳細な分析のためには多角的な視点が不可欠である。本発表では19世紀半ばにおける産科麻酔への反応を雑誌、新聞の記事や医師などの記述から、今まで扱われることのなかった産科麻酔をめぐるエディンバラ・ロンドン間の対立に焦点を当て、出産時の痛みや麻酔の使用への反応の相違を分析していく。19世紀の時点でスコットランドではイングランドと比べて医学研究の組織化が進んでおり、19世紀後半に出産の医療化が進むとイングランドでも産科医の職業としての立場を確立していこうとする動きが起こった。1858年のロンドン産科学会(Obstetrical Society of London)の設立はその顕著な例の1つである。新しい活躍の場を求めて多くの産科医がロンドンに流入する中、ロンドンの医師は自らの立場を固持する傾向にあり、多くの産科医は産科麻酔の使用に反対した。中でもロンドンを代表する産科医ロバート・バーンズはイングランド女性の “moral feeling”  や“self-control”を根拠に産科麻酔の使用に反対した。この発表では、特にエディンバラとロンドンの医師の「クロロフォルムを用いた無痛分娩」に対する評価の温度差に焦点を当て、いかに医学のライバル関係、政治的な覇権争いが、当時の「出産の痛み」の価値の構築に影響を与えていったのかについて論じる。

◆第3報告:堀内真由美氏「白人クリオール女性史の可能性―英領西インド諸島植民地とジーン・リース」(仮)

 本報告の目的は、白人クリオール女性を歴史的に考察することが、旧宗主国の白人女性による女性史と、ポスト・コロニアルの現在における反植民地主義をつなぐ、一つの回路となる可能性を示すことにある。

 今回は、白人クリオール女性として、ジーン・リース(Jean Rhys, 1890-1979)を考察対象に取り上げる。英領西インド諸島、ドミニカ島に生まれ育ち、思春期に「本国」イギリスに渡った作家、ジーン・リースは、1966年に76歳で発表したWide Sargasso Sea(『広い藻の海』)で、当時のイギリスのみならず欧米諸国から高い評価を受けた。80年代以降、ポスト・コロニアリズムの影響から、ふたたび文芸評論の対象として注目を集める。白人クリオール女性としての自己認識や、周囲の非白人女性への姿勢、「本国」イギリスとイギリス人への感情などが、彼女の個人史と密接に重ね合わされて描かれていることから、ポスト・コロニアル作家に分類され、盛んに論じられるようになったのである。

 本報告では、リースに直接関係する資料として、作品群、未完の自叙伝、書簡集、評伝、そして作品に関する評論を取り上げて分析を試みる。分析をとおして、白人クリオール女性とは誰か、そのアイデンティティはどのように形成され、非白人女性との境界にどのような影響を与えたのか、また、『広い藻の海』を執筆中の「本国」イギリスで勃発した「人種暴動」と、リースの故郷への「歴史認識」への関係などについて考察する。

 より詳細な内容としては、まず、これまでのイギリス白人女性史、とりわけ1980年代以降、ポスト・コロニアリズムの影響を受けた女性史研究の系譜をふり返り、そこで扱われた「植民地生まれの白人女性」の姿を確認する。つぎに、90年代以降、西インド諸島の思想と文学に強い影響を与えた「クリオール化」の議論を概観する。「クリオール化」概念は、リース文学批評にも反映されており、彼女を「西インドの誇る女性作家」に押し上げていることから、「クリオール化」概念を利用することの課題についても検証したい。

最後に、本国イギリスのフェミニストが『広い藻の海』から読み取ろうとした、主人公の白人クリオール女性と、収奪された歴史を生きる西インド女性たちとの「和解」成立について、その可能性をさぐりつつ、あわせて、白人クリオール女性史の「和解」への貢献の可能性についても、現時点での考察範囲から言及したい。

以上