◆◆イギリス女性史研究会・第20回研究会◆◆

■日時:2013年6月29日(土)13:30~17:00

■場所: 名古屋市立大学滝子(山の畑) キャンパス 人文社会学部棟103会議室

■アクセス
※交通アクセスについては、下記のサイトをご参照ください。
http://www.nagoya-cu.ac.jp/1481.htm
※会場の場所については、下記のサイトをご参照ください。
http://www.nagoya-cu.ac.jp/1520.htm

桜山駅を降りてからが、ややわかりにくいので説明を加えます。

名古屋市立大学人文社会学部棟は、名古屋市営地下鉄、桜通線、 桜山(さくらやま)駅、5番出口から徒歩です。
名古屋駅から、桜通線の新瑞橋(あらたまばし)方面、徳重(とくしげ)行にご乗車いただき、約15分で桜山(名古屋駅以外からいらっしゃる方も、適宜乗り換えて桜通線をご利用ください)。

桜山駅の5番出口から徒歩15分弱程度。この地下鉄は土曜日には本数が少なく、10分に1本程度です。
5番出口を出たら、そのまま少し直進・最初の角(補聴器と介護用品を扱っている店がある)を右折すると、正面遠くに薄茶色の7階建ての建物が見えます。目的地はこの建物です)。建物のほうに道なりに直進してください。

河合塾桜山という建物があるところで道が途中で切れるように見えますが、2、3メートル右手にある人2人が並んで歩くのがやっとという狭い路地に入ってください。なお河合塾桜山は、校舎ではないので、人の出入りはほとんどありません。路地に入って、10メートルくらいは、大学の建物が見えなくなりますが、大丈夫です。家2.3軒進むとまた見えてきます。

基本は駅を背に直進です。駅から学校まで周りは住宅地です。突き当りがキャンパス正門、人文社会学部は正門を入って左手、最初の建物です。左手の入り口を入ってそのまま奥へ進むと103会議室です。

名古屋駅から大学まで最低でも50分は見てください。大学関係者の方は、約1時間と見積もって移動しているそうです。

 


■プログラム

13:30-13:40 代表挨拶、事務連絡
13:40-14:40 第一報告 中條真実氏「第二次世界大戦と女性の 「声」と「主体性」―イアン・マキューアン著『贖罪』 における「語り」の問題」
         司会 川津雅江氏
14:40-15:40 第二報告 中込さやか氏「1870~1910年代イギリスの女子ハイ・ スクールにおける家庭科の導入: ノース・ロンドン・コリージェト・スクールの事例」
         司会 山口みどり氏
15:40-16:00 休憩
16:00-17:00 第三報告 飯島亜衣氏「18~19世紀イギリスにおける科学と女性~ サイエンティフィック・レディの活躍~」
         司会 三時眞貴子氏
17:10-17:40 臨時総会
18:00-    懇親会

■参加費

会員無料、非会員500円

 


■報告要旨

◆第一報告 中條真実氏「第二次世界大戦と女性の「声」と「主体性」―イアン・マキューアン著『贖罪』における「語り」の問題」

『前線からの手紙』(Letters from the Front, 1994)においてサンドラ・M・ギルバート(Sandra M. Gilbert)とスーザン・グーバー(Susan Gubar)は、両大戦間において女性たちが社会的行動領域を拡大した反面、前線にいる男性たちの代替物として利用されたと指摘する。このため女性たちは前時代のヴィクトリア朝的「家庭の天使」像と19世紀末から20世紀初頭に広がった「新しい女」像という二つの女性像の間で居場所を見失い、より深いジレンマに陥ることになったという。
イアン・マキューアン(Ian McEwan)の小説『贖罪』(Atonement, 2001)に描かれるセシーリア・タリス(Cecilia Tallis)は、 第二次世界大戦期のイギリス社会でそうした「所在なさ」を抱える人物である。彼女はケンブリッジ大学を卒業したものの、女性差別の色濃い当時の規則にした がい正式な学位も授与されず、また社会的役割も見いだせないまま、両親のもと鬱々と暮らしている。「新しい女」にもなりきれず、結局頼りない母親に代わり「家庭の天使」役を演じざるをえない。社会の中で「主体性」を発揮する場から疎外されており、「声」を喪失しているのである。やがて妹ブライオニ・タリス(Briony Tallis)
の虚偽の証言によって恋人が冤罪逮捕されると、セシーリアは家族と絶縁し、第二次世界大戦期に社会的需要が高まった看護婦として働き自立する道を選ぶ。彼女の活動領域の変容は、大戦期における社会的流動性の高まりと、それに伴う女性像の「揺らぎ」の問題と重なりあう。
この問題はブライオニの語りそのものの「揺らぎ」と無関係でない。本小説では、当時の女性たちの不安定な立場をセシーリアが声高に語るのではなく、妹ブライ オニの語りを介して描かれる。ブライオニは自身の犯した罪への意識から、生き別れになった姉と恋人の架空の物語を紡ぎ出す。「家庭の天使」と「新しい女」という二重性に加え、ペンを執る語り手自身の贖罪意識によって姉セシーリアの像は一定のイメージを結びえず揺らぎ続けるのである。語りは過去を虚構化し他
者の「声」を隠蔽・捏造する行為であると同時に、ブライオニ自らの「贖罪」行為である。ブライオニは語りの虚構性を自覚しながら、歴史の中に埋没してしまった姉の「声・主体性」を取り戻すべく、「媒介者」として過去を再解釈・再構築し、語り直そうとしているのである。
第二次世界大戦および当時のイギリス社会を虚構として語ることの問題を意識的に扱う本小説は、従来の「語り」分析では解釈しきれない広がりをもつ。本発表 では戦間期および第二次世界大戦期のイギリスにおける女性たちの社会的状況、「声・主体性」の喪失や揺らぎについて考察しながら、歴史的過去における他者の「声・主体性」を虚構として回復させる「語り」の意義とその問題を論じる。

◆第二報告 中込さやか氏「1870~1910年代イギリスの女子ハイ・ スクールにおける家庭科の導入:ノース・ロンドン・ コリージェト・スクールの事例」

イギリス女子中等教育史は1840年代以降にミドルクラス女子を対象として、大学教育と連動した女子中等教育が発展したことに着目してきた。その中で女性校長をはじめとする改革者達がミドルクラス男子と同等のアカデミックなカリキュラムを志向したと同時に、女性らしさの維持や涵養にも苦心した点はよく知られる。家庭科は1860年代から基礎学校で労働者階級女子の必修科目として教えられていたが、女子中等教育の追求した上記の2点に反すると見なされたため、19世紀後半の女子中等教育では女性のたしなみとされた裁縫(Needlework)が教えられるにとどまった。しかし、20世紀以降に女子中等教育人口が拡大して大学進学を目指さない大衆向け女子中等教育モデルが求められる中、1900年にマンチェスタ女子
ハイ・スクールに家政学(Housewifery)コースが設立され、以降、家庭科の本格的な導入が進んでいった。 中央教育行政機関である教育院がジェンダー別カリキュラムを推進した結果、1910年代までには女子中等教育カリキュラムへの家庭科の導入が実現したが、女子中等学校の校長は家庭科を「学力と出身社会層に劣る生徒向けの科目」と見なしていたという。
しかし実際には、女子中等教育への家庭科の導入は1870年代から実現していた。ノース・ロンドン・コリージェト・スクール(NLCS)文書館の史料は、初代校長フランシス・メアリ・ バスの下で1870~90年代まで裁縫、家事経済(Domestic Economy)、調理(Cookery)、洋裁(Dressmaking)の家庭科の4領域が必修科目または特別コースとして 実施されていたことを示す。また二代目校長ソフィ・ ブライアントのもとで1907年に家事技術(Domestic
Arts)を教える技術コースが設立された。NLCSは1850年の創立以来、アカデミックな女子中等教育を牽引してきた点が着目されてきており、これまで同校での家庭科教育の実態は検証されてこなかった。研究史全体が女子中等学校におけるアカデミックなカリキュラムの発達や、教育院と全国女性校長協会の家庭科導入をめぐる「上から」の教育決定に着目してきたため、本研究のように学校史料を用いてそれら教育決定がどのように「下」の学校現場で実施されたかを問う視点が不足していたと言える。
本報告の目的は1870~1910年代のNLCSにおいて校長バスと校長ブライアントのもとで家庭科として何が、誰に、どのように教えられたかを学校史料から明らかにすることである。NLCSでの家庭科の実践には同時代の女子中等教育が追求したアカデミックなカリキュラムと女性らしさの涵養がどのように反映されたのか。また、家庭科はどのように女性の社会的役割や雇用状況の変化に対応したのか。NLCS学校史料の中でも『学校案内』、時間割、 理事会への校長の報告書、プライズ・デイ報告書、特別コースのシラバス、学校誌などが分析の中心となる。また、当時のカリキュラム決定には校長の意思が強く反映されたため、可能な限り伝記分析のアプローチも取り入れたい。

◆第三報告 飯島亜衣氏「18~19世紀イギリスにおける科学と女性~ サイエンティフィック・レディの活躍~」

「科学と女性」の歴史をふりかえったとき、18世紀から19世紀 にかけてのイギリスでは、多くの「サイエンティフィック・ レディ」(Scientific Lady)が登場している。2000年に出版された『 科学における女性の伝記事典』(The Biographical Dictionary of Women in Science)には、古代から現代まで58カ国におよぶ2598人の女性の生涯がまとめられており、19世紀後半に高等教育制度が女性科学者を輩出するようになる前の時代から、女性たちがさまざまな方法で科学研究にたずさわっていたことがうかがえる。
カロライン・ハーシェル(Caroline Herschel, 1750-1848)は、天王星や赤外線を発見したウィリアム・ ハーシェルの妹で、22歳の時にドイツのハノーファーからイギリスのバースに移り住んだ。 音楽家から天文学者となった兄の天体観測を補佐する中で、自身も8つの彗星と3つの星雲を発見し、1787年と1794年と1796年の王立協会雑誌『フィロソフィカル・トランザクションズ』 に、彼女の彗星発見に関する報告が載せられている。1798年には自身の名で『星のカタログ』を出版し、兄の死後、故郷に戻ってからも、観測記録の整理と目録作りを続け、ケープタウンで南半球の天体観測を行っていた甥のジョン・
ハーシェルと書簡をやりとりした。1835年に王立天文学会初の女性名誉会員に選出され、97歳という長い生涯を閉じるまで天文学への情熱を失うことはなかった。
また、「19世紀科学の女王」と称えられたメアリー・サマヴィル (Mary Somerville, 1780-1872)は、スコットランドに生まれ、投稿型の数学雑誌やフランス語の書物から独学で解析数学を学んだ 。1826年に王立協会で代読された彼女の実験論文が雑誌に掲載され、1831年にラプラスの『天体力学』を英訳出版した功績によって、翌年、王立協会大ホールに胸像が飾られた。1834年に『自然諸科学の関連について』、1848年に『自然地理学』、1869年に『分子と顕微鏡の科学について』を出版するなど、科学書の執筆を晩年まで続け、チャールズ・ ダーウィンとともにアメリカ哲学協会会員に選ばれた。91歳で亡くなった後、1879年に設立されたオックスフォードのサマヴィル・カレッジに、その名を残している。
彼女たちイギリスで活躍した「サイエンティフィック・レディ」は、18世紀から19世紀の「科学と女性」の歴史を鮮やかに彩っている。女性にこうした学習機会をもたらした、当時の科学の裾野の広がりについて考えるとともに、次世代の女性たちにどのような影響を与えたのか明らかにしたい。